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by Guppy
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誕生と他界

誕生と他界_e0020210_0273920.jpg



先週の金曜日早朝に、祖母が他界しました。

先週よりココも再始動しようと思っていた矢先だったのですが・・・。


容態は月曜日から思わしくなく、月曜日の時点で血圧が一度0になり、人工呼吸器を取り付けた「延命作業」に入っていたらしいのです。
そんな事は聞かされていませんでした。
最後の祖父・祖母で、私は一番長い時間を一緒に過ごした祖母でした。

最後に会話を交わしたのは、3月の終わりに嫁を紹介しに行った時でした。
祖母・母・嫁・私の4人で昼ご飯を食べたのですが、イカの握り寿司もペロっとたいらげる91歳のおばぁちゃんでした。
5月1日に胆嚢を患い緊急入院となりました。
丁度、私自身が京都で仕事をしていたので、入院初日に駆けつける事ができたのですが、その時は処置のため麻酔をかけられ寝ていました。
そうしている内に出産準備・出産・仕事と忙しく、会いに行く機会をなくしていました・・・。

先週の水曜日、奈良の天理で仕事を終えた後、地元のホールで打っていた時にメールが入りました。
「おばぁちゃんが危篤です。今から来れませんか?」
母からのメールでした。
ビールを一杯飲んだ後に一報を受けたらしく、自分では運転して行けない中半応援要請のようなメールでした。
直ぐに翌日の仕事の調整をして頂き、駆けつけることとしました。
水曜日の夜半過ぎに到着したのですが、到着直前には血圧上が40を切る重篤な状態になっていました。
駆けつけた時も上80前後・下30前後と思わしくなく、ICU(集中治療室)の液晶画面がピカピカ警告灯を点滅させていました。
「今夜が峠です。」と言われたのですが、少し安定してきたため、祖母の家で仮眠をとることにしました。
翌朝、母の携帯に着信が無い事を確認して、病院へ向かいました。
朝から多量の下血があった事、血圧安定剤を投与した事を聞かされました。
一度、祖母の家に戻り昼から再び病院へ向かいました。
そこで親父殿と合流し、危篤状態3度目の対面となりました。
安定剤が効いてたのでしょう、血圧は上120前後下40前後まで回復しているように見えました。
午後3時過ぎに、親族を集め担当医よりインホームドコンセントがありました。
今までの経緯、今晩から明日へのことなどです。
要約すると、“助かる見込みをもって手を尽くしたが、容態の変化によりその見込みが無くなった、今朝から助ける方向での薬・処置をしていません。今夜から明日が峠だと覚悟してほしい。”とのことでした。
印象に残った言葉があります。
「いつか解らないので、一度引き上げたい。」と言う親族に対して先生が
「ご本人様と、ご自身の悔いの無いようにして下さい。」
この時、ものすごく詭弁に聞こえたのですが、人との付き合い方は全て同じ事が言えるのだと思いました。
~ 一期一会、自身の悔い無き様に ~

私は翌日の仕事がどうしても外せなかったため、一度引き上げることにしました。
夕方、これが最後と覚悟を決めてICUに入室、呼吸こそしているものの手足に横断が出始め冷たくなりつつある祖母の手や足を摩り“最後のお別れ”を心の中でしてきました。
そして帰宅。


翌朝、ふいに目覚め携帯で時間を見る、【5時31分】・・・6時半に起きる予定だったのでもう一度寝ることにした。
ガタガタガタ・・・。締め切った6畳間の襖が揺れる。
現在、嫁は里帰り中で家には私一人、当然窓も締め切ってるので音源に心当たりが無い。
ただ疲れていた事と、本日の仕事の後に体力を少しでも残しておきたいことがあり、気にせず寝ることにした。
予定通り6時半に目覚め携帯のアラームを切る。
と、1通のメールが・・・「おばぁちゃんが5時39分に病院で亡くなりました。今日、●町のセレモニーホールで通夜となります。」
私 「あぁ、最後に会いに来てくれたんやね。」
知ってる方は十分知ってると思うが、私は大の宗教否定論者でオカルト否定派の人間です。
でもね、自然にそう思えました。(思えた事は仕方が無い。)

忙しかった・・・名古屋で仕事を終わらし一度自宅へ戻って水浴びをして京都へ向かう。
翌日の仕事をキャンセルさせて頂き、この週2度目の夜の京都へドライビィン・・・。
到着したのは22時過ぎ、久しぶりに会う弟2人との挨拶もそこそこで変り果てた祖母の棺の前へ・・・。
昨日の夕方までは息をしてたはずの祖母が綺麗に化粧を施されて横たわっていた。
両親からココまでの経緯とこれからの予定を聞く。

一度祖母の家へ帰り泊まることに・・・。
下の弟君(HN:ガンマ君)と2時頃まで祖母の話や今年の予定について話し合う。
ブログにも書いたと記憶しているが、今年の10月にガンマ氏は結婚の予定が入っている。
私の家も、7月8日に息子のお宮参りが入っている。
家族会議の結果、喪に服するが予定は決行の方向でまとまった。

翌日(土曜日)、朝から仕度を整え葬儀会場へ向かう。
これまたブログで書いた親父殿の新車(ノア)に、家族5人が全員乗るのは初めてのこと、今回は私がハンドルを任されて向かう事になった。
家族5人が同じ車で移動することは何年ぶりであろうか・・・。
はっきり記憶にあるのは、18年前に北海道の実家(父方)に家族でハイエース旅行に行って以来の出来事に思う。
これも、おばぁちゃんのお陰だね なんて事を言いながら30分程度の道のりを団欒の場所にさせて頂いた。
ガンマ君はクリスチャンのため、数珠も持てず焼香もできず終始最後尾で立って見てる形になった。
※宗教を貫き通す事は難しく素晴らしいことだと思う、真似事で教会結婚式をしたことが改めて恥ずかしく思う。
いつもは、かなり反発する宗教神事であるが、亡き祖母を悲しませたくない思いの方が強く“郷に入らば郷に従え”の精神で手を合わせた。
程なく葬儀が終わり、棺を霊柩車へと運ぶ・・礼服が化粧箱で汚れるも気にせず火葬場へと全員が移動。
ココで残る者は10名程度に絞って欲しいと依頼がある。
各子の長男までが残る事になる。
私は3人兄弟の長男である。
必然的に残る面子に・・・。
火葬場は大賑わいであった。
京都はココしかないのか?
待合ロビーは座る場所さえないくらいの喪服でごった返していた。
自販機のジュースは、ほぼ売り切れ・・・。
「今日はこれでも少ない方なんです・・・。」
これからの時代、この手の商売は伸びる方向にある事を改めて実感した。

お骨を骨壷に入れる儀式が始まった。
とても享年91歳とは思えない太い骨を見てビックリする。
今回亡くなったのは、母方の祖母であるが、母方の祖父以外の祖父・祖母は全て私も骨を拾った。
何かの縁であろうか? 母方の祖父は私の5歳参りの時に他界したのだ。
死に水を掬うと言う言葉があるが、私は祖父が他界する時に最後に声をかけられた孫である。
今回、私の息子のために、その時着ていた晴れ着を出してきて、染み抜きなどの処理をしていた矢先であった。
あまりにも早くシステマチックに進む儀式に困惑を覚えた。
一昨日の夕方に息をしてる姿を見ているからだろう。

骨壷を会場に持ち帰ったら、諸七日が始まった。
最近は忙しい世の中で、今集まれた面子が次回は集まれない可能性が高く、こういう形式をとることも珍しくないらしい。
毎日、起きれば仏壇の祖父に声をかけてた祖母。
自分のご飯より先に仏壇のご飯を取り替えてた祖母。
毎日、何度も仏壇に向かいお経を唱えていた祖母。
私が行った時も、すかさず仏壇の祖父に報告していた祖母。
葬式当日に諸七日までするとは、せつらしい世の中である。
28年ぶりに祖父に会えたことだと信じる事にした。
片時も忘れず、無茶してた祖父のことを想い続けていた祖母に尊敬の念を覚える。
やっと会える日が来たんだね。

子は4人、全て家庭を持ち、子(孫)にも恵まれ、私の息子を入れると4人のひ孫にも恵まれたことを見届けられた事、享年91歳の天寿をまっとうし大往生だと言う。
最後までボケることなく、一人暮らしを続け、お金にも困らなかった後半の人生・・・。
ただ、私自身の中には、やはりタラレバの後悔は残るものである。
最後に一目息子(ひ孫)を見せたかった。
見せれるタイミングでは、祖母はもはやICUの中にいて、母からも反対された事があり病院には行けず終いであった。
その状態で見せてたとしても、息子の記憶にも無く、祖母は意識も無い状態であり、私と嫁の自己満足の世界でしかなかったのであろう。

~ 一期一会、自身の悔い無き様に ~
人生とは、縁でありタイミングであるのでしょう。
今できることは、実は今しかできないことなのだと思います。


今月、息子が誕生し、祖母が他界しました。
精神状態の浮き沈みがキャパオーバーな状態です。
出産に立会い、生まれいずる瞬間に遭遇できました。
延命治療の現場に立会い、手足が黄色く、手首・足首から下がパンパンにむくれて冷たく、それでも発熱を起こし39°近い熱を出し最後まで生への道を模索していた場所。
なんかね、色々考えさせられる事が多いです。


最後に、纏まりの無い文章でしたが最後まで読んで頂いて感謝しています。
少し落ち着いたら、再始動しますね。
仕事の都合をつけて頂いた方々に感謝しています。
お陰様で、自分の責務を果たし、そしていい経験を積ませて頂けました。


by guppy_e | 2006-06-26 00:28 | ブログ